休日。
疲労で出かける気がせず、つい、「クロノトリガー」を一気に進めてしまう。レベルをガンガン上げる。そして2周目へ。
他に言えることがない。
疲労で出かける気がせず、つい、「クロノトリガー」を一気に進めてしまう。レベルをガンガン上げる。そして2周目へ。
他に言えることがない。
11時から12時まで、日本画コース1年生の顔合わせが行われ、全員ではないが20数人の学生たちが大学に来校。使用するアトリエにて、教員5名と副手からの挨拶、そののち大学構内の案内などを行う。授業が重なっていたり、来校できない学生たちにはzoomで中継・録音。現場でもソーシャルディスタンシングに考慮しつつ、かつ教職員も学生もマスクを着用。そのため表情がはっきりわかるわけではないけれど、6月も半ばを過ぎて、ようやく「入学おめでとうございます」と伝えることができた。
大学入学というのは個々によってさまざまな思いがあるはずで、必ずしも彼ら自身が喜ばしいと思っているのかどうか、本当のところを私はわからない。だが大学には、あなたがここに来たことを喜び、歓迎する人間がたくさんいること。教員と学生が互いに学ぶ場として大学があるといい。私たちは「芸術を学ぶ」という一点で、年齢も出自も国籍も超えつながっている。学問、研究は孤独な営みでありながらしかし、誰か(それは必ずしもいま・ここにいない人であるかもしれない)と共有できるからいい。学生たちと構内をまわっていると、終盤、雨がぽつぽつと降ってきたりもしたが、よい時間があった。 金曜日は昼過ぎから「アーティストマネジメント」という3年生対象の授業があり、これはアーティスト、ギャラリスト、キュレーターなどさまざまなゲストをお呼びしてお話をしていただくというもの。今日のゲストはアーティストの淺井裕介さん。授業自体には日本画コース会議に重なっていて聴くことができなかったが、その後の特別なプログラムで久しぶりに話をすることができた。2019年度から始まったT.I.P(TUAD INCUBATION PROGRAM)という、アーティストを目指す美術科4年生対象のプログラムである。自ら志願し、選抜された学生が主体となって運営している。教員はそのサポートというかたち。そういえば私は大学生の頃「アーティスト」と会ったことなんてあったかな、などと思い返した。その人だからこその特別な活動を行ない(つまり真似できない)、制作を行っているアーティストの話は、どのような意味で未来を嘱望する学生たちに響いただろうか。これもまたオンライン。ちょうどそのプログラムの正規の実施時間は切れそうだというところで、「小金沢くん、時間あるならまだやろうよ」と、昼から見ればほぼ半日学生たちに付き合ってくれた淺井さんに感謝。 10時をめどに4年生の何人かが来校し、アトリエの場所決めが行われる。敷居としての大きなパネルなどを移動・設置などして、がらんとした大きな空間内が、ソーシャルディスタンシングを気にしつつも、区切られる。個々の場所が作られる。
そして彼らの大きな手伝いがあって、明日予定されている1年生の顔合わせ場所のセッティングを行う。「本来ここにないもの」たちの大移動が行われる。主に在学生たちの作品群で、その作品群は学年の変わり目、アトリエの変わり目で本人の手によって次の場所へ動かされるものなのだが、COVID-19によって来校すらすることができなくなったため、そのようなこともかなわなかった。動かして、1年生のための場所を作る。 午後、長沢明先生が主に担当している美術科共通演習の授業でレクチャー。これは美術科の日本画コース以外の学生たちが受講しているもので、各学生は現在《随身庭騎絵巻》(鎌倉時代)の模写にリモートで(つまり自宅で)取り組んでいる。そもそもなぜ「模写」という行為が、これだけ複製の発達した時代で必要なのか? ということを、模写の意義について歴史的背景をまじえながら話をする。別の機会にも、日本画コースの学生たちにこんな話をしたことを思い出す。とはいえ、模写の専門家ではないため、その現在(性)について私はもっと勉強しないといけないな。 定例の「日本画考」では「日本画」という言葉・概念についての話。先週の「レポートをどう書くか」と実は通じるところがあり、つまりそれは「言葉」をどう考えるか、自分のものににするか、そういう話だということ。やってみないとわからないのだが、シラバス通り、いい流れで話ができているような気がする。しかしどこかで「これは違うかもしれない」と思った場合、話すことを変える必要はもちろんある。計画は大事だが、ライブであることを授業では第一に考えたい。 夜、会合。 午前中、東京藝術大学建築科教授の青木淳さんにお声がけいただき、建築科3年生に太田市美術館・図書館の設立目的と実践についてオンライン・レクチャー。演習の課題が美術館なのだという。複合施設であるという特徴、そして平田晃久さんのユニークな建築をどうキュレーションに組み込んでいたかなど、1時間ほどお話しする。レクチャー前には、学生のプレゼンテーションとそれに対する先生方の講評があり、これがとても興味深かった。建築における言葉、プレゼンテーションの意味。まずそれらが他者に対して正確に伝わるものでなければ、そもそも建築は実現し難いのだ。絵画との違いを考える。
午後は職場で4年生の卒業制作プラン発表。2つのゼミの学生たちが、計画書と小下図で自作についてプレゼンを行い、それに対して講評。そもそも性質が違うのだが、建築と異なって、自己が出発点となり作品が検討されている場合が多い。しかし絵画もまた社会の中で制作され、発表されるということ。そこには他者への視点が多分に必要である。 レクチャー、講評とヘビーな一日で疲労困憊。 3年生の演習「画像から描く」では、三瀬先生、中村ケンゴ先生とともに、学生たちが作品制作にあたって参照した各種資料についての発表。作品のバックグラウンドに何があるのか、という話で、ただ小下図を見て検討するのとは違う種類の面白さがある。こういう話はとても大事だと思う。
本日発売の『週刊朝日』にエッセイを寄稿しています。「最後の晩餐」ならぬ「最後の読書」とは、書評のようで書評ではない、本を紹介するコーナー。自分が生の最後にどのような本を読みたいか。好きに書かせていただきました。 |
koganezawa satoshi・日々のこと Archives
August 2020
Categories |