9月になりました。雨の日が続いています。
さて、最近、デビュー当時から現在までの作品の変遷を聴き取り、それを文章にするということをある作家から依頼され、行っています。これがとても面白いです。
仮にAさんとしましょう。私は、Aさんのここ数年の作品は、個展やグループ展を通してその多くを見ています。しかしAさんが初個展を行ったのは1990年代後半で、私はAさんが発表した作品の半分以上は見れていません。つまり、私はAさんの出発点がどのような作品で、どのような思考の過程を経て現在に至っているのか、知らないまま現在の作品を見ているということです(Aさんの場合は、ホームページで画像を見ることができるのですが、それは実際の視覚体験とは異なりますし、どのような意図でその作品が作られたのかについては触れられていません)。
そもそも、ある作家のデビューから作品のすべてを見続けるということは、簡単なことではありません。もしかしたら、作品のすべてを見ることができているのは、その作家本人だけかもしれません。であるならば、「作品について考えたことを文章にして残しておく必要がある。自分ですらそれを忘れてしまうことがあるのだから」、というのがAさんの考えです。
ある作品を見たとき、この作家はどういうことを考えてこの作品を作っているのだろう?と思っても、その思考を残したテキストに辿り着くことは容易ではありません。作家のそのときどきの考えが、カタログや美術雑誌、本人のホームページやブログなどで、まとまって、かつ継続的に載っているのであればアクセスしやすいでしょう。けれども、作家にとって重要な作品のすべてについてそれが行われているということは、きわめて稀なのではないでしょうか。
作家のスタイルとして、それは行わないと決めているということもあるでしょう。鑑賞者は、作家の過去の作品の視覚体験が欠落しており、また過去の思考の軌跡を知らずとも、作品を見ることができます。しかしその欠落が埋まることで、現在の作品を見るという行為がより豊かなものになることもあります。美術という視覚表現はなるほど簡単に言葉にできるものではありませんが、ひとつの作品ができあがる過程では、作家のさまざまな、そして明確な思考があります。作品について、タイトルについて、発表場所について、当時の自身の状況について、初期から時期を追って話をうかがっていると、一人の作家を通してひとつの歴史が立ち上がるような心地がし、そこには他者である私にとっても多くの学びと気づきがあります。
まとまった数の作品について作家本人から話を聴くこと、そしてそれを文章にまとめ、編集すること。こういったことを私が初めて担当したのは、画家の諏訪敦さんから依頼され、作品集『どうせなにもみえない』(求龍堂、2011年7月)の解説を書かせていただいたときでした。今回Aさんの作品について話を聴きながら、あのときのとても面白かった日々を思い出しています。現在、十数時間聴き取りを行い、ようやく作品点数としては半分くらい。まだとても文章には整理できておらず、私の仕事としてはむしろそちらの方が本番なのですが、話を聴くことがまず楽しいので、早く次の聴き取りの日が来ないかなと思っているこのごろです。
さて、最近、デビュー当時から現在までの作品の変遷を聴き取り、それを文章にするということをある作家から依頼され、行っています。これがとても面白いです。
仮にAさんとしましょう。私は、Aさんのここ数年の作品は、個展やグループ展を通してその多くを見ています。しかしAさんが初個展を行ったのは1990年代後半で、私はAさんが発表した作品の半分以上は見れていません。つまり、私はAさんの出発点がどのような作品で、どのような思考の過程を経て現在に至っているのか、知らないまま現在の作品を見ているということです(Aさんの場合は、ホームページで画像を見ることができるのですが、それは実際の視覚体験とは異なりますし、どのような意図でその作品が作られたのかについては触れられていません)。
そもそも、ある作家のデビューから作品のすべてを見続けるということは、簡単なことではありません。もしかしたら、作品のすべてを見ることができているのは、その作家本人だけかもしれません。であるならば、「作品について考えたことを文章にして残しておく必要がある。自分ですらそれを忘れてしまうことがあるのだから」、というのがAさんの考えです。
ある作品を見たとき、この作家はどういうことを考えてこの作品を作っているのだろう?と思っても、その思考を残したテキストに辿り着くことは容易ではありません。作家のそのときどきの考えが、カタログや美術雑誌、本人のホームページやブログなどで、まとまって、かつ継続的に載っているのであればアクセスしやすいでしょう。けれども、作家にとって重要な作品のすべてについてそれが行われているということは、きわめて稀なのではないでしょうか。
作家のスタイルとして、それは行わないと決めているということもあるでしょう。鑑賞者は、作家の過去の作品の視覚体験が欠落しており、また過去の思考の軌跡を知らずとも、作品を見ることができます。しかしその欠落が埋まることで、現在の作品を見るという行為がより豊かなものになることもあります。美術という視覚表現はなるほど簡単に言葉にできるものではありませんが、ひとつの作品ができあがる過程では、作家のさまざまな、そして明確な思考があります。作品について、タイトルについて、発表場所について、当時の自身の状況について、初期から時期を追って話をうかがっていると、一人の作家を通してひとつの歴史が立ち上がるような心地がし、そこには他者である私にとっても多くの学びと気づきがあります。
まとまった数の作品について作家本人から話を聴くこと、そしてそれを文章にまとめ、編集すること。こういったことを私が初めて担当したのは、画家の諏訪敦さんから依頼され、作品集『どうせなにもみえない』(求龍堂、2011年7月)の解説を書かせていただいたときでした。今回Aさんの作品について話を聴きながら、あのときのとても面白かった日々を思い出しています。現在、十数時間聴き取りを行い、ようやく作品点数としては半分くらい。まだとても文章には整理できておらず、私の仕事としてはむしろそちらの方が本番なのですが、話を聴くことがまず楽しいので、早く次の聴き取りの日が来ないかなと思っているこのごろです。