KOGANEZAWA SATOSHI
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8/27/2015

 
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松岡亮個展「あそびとまなびの種展」 撮影:小金沢智
美術の研究や批評というものがあって、私はその範疇で仕事をしていると自覚しているけれど、そういう範疇で具体的かつ理路整然に語ることが難しいものがある、というか、ただ今の自分のできること・できないことの範囲を考えたとき、自分にとっての言葉というものがどれだけ正確に自分の感情を伝えることができるのだろうか、ということに対する疑義を、作家というよりもその彼や彼女が作り上げた作品を前にして感じることがある。彼にかぎらないことではあるけれど、松岡亮さんの作品を前にとりわけそれを感じるのはなぜだろう。なぜだろう、と思いながら、それの答えはいくら作品を見ても本人と話をしてもわからず、しばらくして、わかるとか・わからないということが些末なものなのかもしれない、ということに気づく状況にたどり着く。これはなんだろう、と何度も考える。

絵は、というときの絵自体が、さまざまなフィルターをかけられていて、それは歴史や理論や風土やジェンダーなどさまざまなものが描画材料によるイメージや、イメージならざるものに覆いかぶさっているのだけれど(そういう言葉自体にも、語る主体の個々の無数のフィルターがある)、したがってもはやなにがなんだか一言ではとても言いにくい、と私自身は思っていて、しかし、そのなかでなにか自分にとって響くものがあり、そういう心境のなかでも松岡亮さんの絵は、ただ絵としてそこにある、と私は今言うのだけれど、そのただ絵としてそこにあるということの具体的な説明をできるわけではない私の言葉の弱さがここにある。けれど好きなのだ。 

これはなんだろう、と繰り返したい。この、好きだとは、なんなのだろう。その根本には、「美しさ」がある。 

なにかに対する「美しさ」の説明を実感ともなって具体的にすることが難しいことと同様に(実際美とはひとつのイデオロギーである)、個々の感情の起伏や表出は個々の経験や環境によって出方が異なるものだから、容易に定義づけられるものではない、という当たり前のことに対する気づきがまずあり、そこからどれだけの言葉を積んでいくことができるのか(自分ではない誰か=あなたに対して)、それによって自分はなにを言うことができることだろうか。 

そういう意味では、まったく、この文章自体はまだどこにも今のところたどり着いていない。書けばどこかにたどり着くことができるのかもしれないと思いながら、有楽町と原宿の松岡さんのそれぞれ尋ねるのは二度目の今回の各個展の帰り道、書きはじめたけれど、まだ最初のところでぐるぐる回っているような感触がある。感触というか事実そうだ。言い切っていないことの弱さを、ここで今私は気づかなければならないのだ。言い切れと、松岡亮さんの絵は私に言う。美術のことも、そうではないことも。 おそらくそれは、生きることに対してのあたなの感情に対してだ。

しかし、とはいえ、その最初のところでぐるぐる回らせてくれる作品や作家と出会ったことがありがたいと思う。これは、これまで松岡さんだけではない、(雑な言い方になるけれども)古今東西の作家や作品との出会いがあり、そうして、今の個人的なタイミングでは松岡さんの絵が響いたということだ。


そうして、個人的に説明不可能なもの、言語化不可能なものに出会ったとき、これまで自分は絵を、美術を見てきてよかったと思う。これまでのすべての美術と、今と、これからの未知のすべての存在が、体験も予感も含めて、ブワッと立ち上がるような心地がして、まったく抽象的な言い方だけれども、そう、そうして私は今、自分の見てきた美術の総体のただ中にいる。

そうではないか? 鑑賞とは、最終的にはそういう個人的なものだ(美術は、必ずしも個人的なものではないけれども、最後には個人的なものであると信じたい)。かつ、それは今見ている絵が呼び起こしたもので、さらにこれから見る絵が呼び起こしたものであるかもしれない。 という意味では、私は絵の鑑賞の過去と現在のただ中にいて、未来にもいる。鑑賞というものを、広く考えたい。それは生きることと密接に結びついたものだ。絵や、美術は、生きることとは関係がないだなんて、なんてつまらない言葉だろう。

絵だけが今の自分を作っているわけではもちろんない。いろいろなものが、本当にいろいろなものや人が、これまでの自分を作り、これからも作るだろう。けれどもそのなかでも美術は、自分にとっては自分を形作る大事なもののひとつになっていて、そのことを誰にも強制しようとは思わないけれど、それを大事に思う人が私以外にも、実際私以上にいるだろうから、今後それに対して応えられる仕事を私はただ個人として続けていきたい。 

間もなく終わってしまう、松岡亮さんの個展をぜひ見てください。 

◉松岡亮個展「実と花 時と間 葉と月」
2015年8月1日(土)〜8月31日(月) 12時〜20時
定休日: 水曜日

BLOCK HOUSE
東京都渋谷区神宮前 6-12-9(地下 1 階ギャラリースペース・3 階カフェバー・4 階ギャラリー)
Website:http://blockhouse.jp
代表: 小野寺宏至

◉あそびとまなびの種展
2015年7月14日(火)〜8月29日(土)10時〜21時
定休日:会期中無休

無印良品 ATELIER MUJI
東京都千代田区丸の内3−8−3 インフォス有楽町 2F
Website:http://www.muji.net/lab/ateliermuji

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松岡亮個展「あそびとまなびの種展」 撮影:小金沢智
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松岡亮個展「あそびとまなびの種展」 撮影:小金沢智
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松岡亮個展「実と花 時と間 葉と月」 撮影:小金沢智
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松岡亮個展「実と花 時と間 葉と月」 撮影:小金沢智
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松岡亮個展「実と花 時と間 葉と月」 撮影:小金沢智

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8/20/2015

 
戦後70年の2015(平成27)年、美術館・博物館で開催された(される)、戦争と美術に関連する展覧会をまとめました。

・「近代日本の社会と絵画 戦争の表象」、2015年4月11日〜6月7日、板橋区立美術館、http://www.itabashiartmuseum.jp/main/exhibition/ex150411.html
・「MOMAT コレクション 特集: 誰がためにたたかう?」、2015年5月26日
〜9月13日、東京国立近代美術館、http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20150526/#section1-1
・「イマジン─争いのない世界へ」、2015年6月11日〜9月1日、福岡アジア美術館、http://faam.city.fukuoka.lg.jp/exhibition/detail/236
・「浮世絵の戦争画−国芳・芳年、清親」、2015年7月1日〜26日、太田記念美術館、http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/H2707-ukiyo-esenso-ga.html

・「発掘!知られざる原爆の図」、2015年6月3日〜9月13日、原爆の図 丸木美術館、http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2015/2015hiroshima.html
・「マンガと戦争展 6つの視点と3人の原画から」、2015年6月6日〜9月6日、京都国際マンガミュージアム、http://www.kyotomm.jp/event/exh/manga_and_war.php
・「衣服が語る戦争」、2015年6月10日~8月31日、文化学園服飾博物館、http://museum.bunka.ac.jp/exhibition/
・「横浜美術館コレクション展 2015年度 第2期 戦後70年記念特別展示 戦争と美術」、2015年7年11〜10月18日、横浜美術館、http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20150711-455.html
・「戦後70年記念 20世紀日本美術再見 1940年代」、2015年7月11日〜9月27日、三重県立美術館、http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/…/1…/1940_nihonbi_shosai.htm
・「MOTコレクション 戦後美術クローズアップ」、2015年7月18日〜10月12日、東京都現代美術館、http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/motcollection-closeup.html
・「画家たちと戦争:彼らはいかにして生きぬいたのか」、2015年7月18日〜9月23日、名古屋市美術館、http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenran…/2015/worldwar2/
・「戦争の時代を生きた画家たち」、2015年7月18日~11月8日、大川美術館、http://okawamuseum.jp/top-detail.php?f=798b0563cb82704f81d93c3b991f2a08
・「戦争と平和——伝えたかった日本」、2015年7月18日〜2016年1月31日、IZU PHOTO MUSEUM、http://www.izuphoto-museum.jp/exhibition/178560828.html
・「広島・長崎 被爆70周年 戦争と平和展」、2015年7月18日〜9月13日、広島県立美術館、http://www.hpam.jp/special/index.php?mode=detail&id=141
・「戦後70年 無言館展 画布に遺した青春」、2015年7月18日〜9月3日、富山県立近代美術館、http://www.pref.toyama.jp/branches/3042/exhibition/exh_2015/exh_15_2.htm
・「[被爆70周年:ヒロシマを見つめる三部作 第1部]ライフ=ワーク」、2015年7月18日〜9月27日、広島市現代美術館、http://www.hiroshima-moca.jp/exhibition/life-work/
・「非戦70年 ちひろ・平和への願い」、2015年8月5日〜10月25日、ちひろ美術館、http://www.chihiro.jp/tokyo/museum/schedule/2015/0119_1637.html
・「MOMAT コレクション 藤田嗣治特集」2015年9月19日〜12月13日、東京国立近代美術館、http://www.momat.go.jp/am/2015/#section1-3
・「戦後日本美術の出発」、2015年9月19日〜11月3日、群馬県立近代美術館、http://mmag.pref.gunma.jp/exhibition/index.htm
・「戦後70年:もうひとつの1940年代美術」、2015年10月31日〜12月23日、栃木県立美術館、http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/schedule/index.html
・「戦争画STUDIES」、2015年12月9日〜12月20日、東京都美術館ギャラリーB、http://sunshinenetworkjapan.net/
・「画家と写真家のみた戦争―宮本三郎、久永強、向井潤吉、師岡宏次」、2015年12月19日〜2016年3月21日、世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館、http://www.miyamotosaburo-annex.jp/

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8/6/2015

 
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戦争を考えるとき、実体験としてそれを強く意識したのは(それほど実体験ではないわけだけれど)、2011年9月11日の「9.11」だった。ちょうど自分は浪人していたときで、早朝起きてテレビをつけたらそのニュースをしていた。両親もまだ起きていない早朝のおそらく5時台の時分、リビングのテレビで、WTC第7ビルに突っ込む旅客機の映像を繰り返し見て、「戦争がはじまった」と思い、一方「これで勉強しないですむかもしれない」と思ったことを恥ずかしながら告白してしまうほど、幼かった自分のことを思い出す。それでも、まだ、戦争は遠いものとしてあった。徴兵されることもなかった。

ともあれ、結局大学に入り、その強い影響は感じずに、あれはなんだったのだろうと反芻することもなく、責任感もなく、入学からしばらくして、日本美術を学ぶことを決めた。だから、チェルフィッチュがイラク空爆(2003年3月)年をモチーフにした「三月の5日間」(2004年)を発表したとき、自分がなにをしていたかなんて、ほとんど覚えていない。講義とサークルとアルバイトに明け暮れていたのだと思う。人はすぐ大事なことを忘れてしまう。

いわゆる「戦争画」への関心は、2014年の大学3年時、通年だったのか半期だったのか今や忘れてしまったものの、確か「日本美術史特講」という、現在千葉工業大学教授の河田明久先生の講義を受けてからはじまった。当時も今も、戦争画の第一人者の先生だ。

実はそれ以前に、私の母方の祖父はパイロットとして戦時中訓練を受けていたことがあって、祖父からの−−というか普段の呼び方をすれば「おじいちゃん」からの「戦争」の話は、お盆で親族が集まる折にしばしば聞いていた。けれど、あまりリアリティを持てなかったというのが正直なところだった。だから、大学の講義を経て、美術というひとつの極からのアプローチを経ることでそれが膨らんだ、というのが事実で、それ自体フィクションであるはずの美術によって、ノンフィクションである戦争を体験した肉親の話を、それまで以上に興味深く聞くようになったというのは、自身、屈折しているなと思う。一方でこの屈折を忘れてはならないとも思う。私(たち?)はもはや、ストレートではありえない。


そうして、少なくとも私はそういう過程を経て、自分と戦争の関係のようなものを考えるようになった。でもこうした自分ならではの過程というものが、人には、必要なのかもしれない。つまり、誰かからのお仕着せのものではなく。少なくともまだ戦争が起こっていない自分たちには。あるいは、戦争であれなんであれ。そう、必ずしも共有すればよいというわけではないのだ。

漫画家の今日マチ子さんの作品が好きでよく読んでいる。少女たちのあどけなさ、かわいさ、そして残酷さ。少女ではない自分の立場から読んでいるのだと思う。だからわからないことも多いけれど、惹かれている。すごい人だと思いながら。


そして、「戦争三部作」とも呼ばれる『cocoon』(2010年)、『アノネ、』(2013年)、『ぱらいそ』(2015年)。

『すばる』2015年8月号の「特集”戦後”71年目の対話」中の、今日マチ子さんと小林エリカさんの対談「日常と想像力で戦争に抗う」で、今日さんがこう言っていることに強く心が動いた。「戦争」が物語の中に入ってくると、それに話や個人が収斂されてしまうといった対話の中の一節だ。

今日 少女でなくなった後のことも、少女になる前のことも、ないものにされてしまうわけですよね。少女時代のことにしても、その人の人生には、並行していろんな些細なことが日々起こる。でも戦争というテーマがキャラクターに覆い被さると、他の全てがないがしろにされてしまう。描いている側からするとそれが悔しくてしょうがない。少女であることのくだらなさみたいなものは、いつの時代だってあるはずなのに、それがうまく伝えられず残せないとなると、やっぱり戦争に負けているという感じがする。そんな状況の中でも、少女であることを何とか描き出したい。それが結局、少女と戦争というテーマを扱い続けることにつながっているみたいです。(
『すばる』第37巻第8号、2015年8月号、198頁)

つまらない言い方になるけれど、とても感動した部分で、これは今日マチ子さんの作品にかぎらずに、戦争となにかを考える上で、非常に大事な言葉だと思う。それだけがすべてではないのだ。たとえば藤田嗣治や宮本三郎や、戦時中に従軍画家として重要な役割をはたした画家について、ついそこだけを見てしまう。そういうことがないだろうか。


たとえばこういう言い方がある。あの作家は戦争画こそ優れている、あれが作家としてのピークだ、というような。それはすべてを美術作品に還元する態度だ。しかし生きている画家は、それだけに還元できるものではありえない。

気をつけなければならないのは、そこには、ともすればわかりやすい画家と戦争の物語がある。それは、もしかしたらそれを求めている私たちからの視点を含んだ、物語だ。しかし、個々の事象を見ていけば、そういったわかりやすい物語に還元できることだけではない。むしろ、わからないことが、目の前に、次々と立ち上がっている。ひとりの人間の生涯は、それほど簡単なものではない。言うまでもなく、あなたも、そして私も。

たとえば今、「さながら戦時下のようだ」という言葉を聞くように、ある時分にとってリアリティを持って過去の事象について語ること−−それは対象と自分との関係性において非常に重要な手続きだと思うものの、しかしわかりやすいことに還元することは危険でもある。そのとき、何度も自らに聞きなおす必要があるだろう。「本当にそうか?」と。「そのときはどうだったのか?」と。


なぜなら日々、そういう「わかりやすいこと」に、私たちは脅かされている。


写真:『すばる』第37巻第8号(2015年8月号)、2015年8月6日自宅ベランダにて撮影

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8/5/2015

 
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2015年8月6日、起床してインスタグラムを見たら、フラワーアーティストの東信さんが広島の原爆死没者慰霊碑に献花している写真をアップしていました。そう、8月6日です。

今年になってからさまざまな場所で聞く、「あれから70年」は、どこかすっきりしていてすっと入ってくる耳通りのよい言葉ですが、しかし、70年という時間の経過を改めて考えようとしてみれば、少なくとも自分は生まれておらず、想像するしかない時間の果てしなさに思い至ります。

そのとき何が起こったのか、あるいは、その前に何が起こったのか、あるいは、その後に何が起こったのか。なるほど時間は連続していても、出来事ははたしてすべてが連続しているのでしょうか。なにがどう関係しているのか、あるいはしていないのか、自分がこれまで生きてきた32年間すら俯瞰して見ることが難しいのに、そうではない70年前とどう向き合えばよいのだろうと、途方もない気持ちになります。

すべてを「わかる」ことなどありえません。けれども、だからといって「わかる」ことを諦めるのではなく、むしろ「わからなさ」に手を伸ばすことによってたどり着く場所があるならば、と思います。

8月15日(土)、8月22日(土)の各16時15分〜18時、清澄白河のgallery COEXIST-TOKYOにて連続講座「戦時下の美術家を〈読む〉」を開催します。15日は松本竣介、22日は宮本三郎、彼らが戦時下に著した代表的なエッセイ/著書をその最初から最後まで丁寧に読み進めることで、戦時の画家のありようを「わかる」ことを目指すのではなく、どうしても「わからない」時空があることを知る機会にすることができればと考えています。

詳細は以下のリンク先の通りです。

ご興味ある方がいましたら、ぜひギャラリーまでお申し込みください。

[連続講座]戦時下の美術家を〈読む〉
http://coexist-tokyo.com/koganezawa_lecture-1508/



写真:「國防国家と美術(座談会)ー畫家は何をなすべきかー」『みづゑ』434号(1941年1月号)、2015年8月6日自宅ベランダにて撮影

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    ・「山形日記」(2020/4/28-)

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