KOGANEZAWA SATOSHI
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8/5/2014

 
2014年8月2日(土)、延べ5年ほどは行っていたツイッターの個人アカウントを退会しました。ここ1〜2年程は理由があって非公開にしていて、しかしそれだと知らない方との交流や情報発信という点でほとんど意味がなく、次第に思ったことをそのまま考えもなしにつぶやくような、そんな使い方をしてしまっていることが嫌になったというのが理由です。

当日ある場所で会った人が、「誰もあなたにそれをやれと頼んでいるわけではないのだから、自分が責任を持つことができる、自分のやりたいことをやりなさい」というようなことをその場にいた人に言っていて、私はそのとき、「それは、自分が達成したいもののために必要なのか?」と問われたような気がしたのが、大きなきっかけにもなっています。


私にとってツイッターでの言葉は、とりわけ近頃は、往々にしてゆるく、軽いもので、だからこそ個人的には面白かったという側面はあるにせよ、それが普段使っている言葉の全体の質量を落とすこともあるかもしれないということに、なかなか気づいていませんでした。ほとんど推敲のない、練られていない、なまの言葉は、言うまでもなく危うさもともなっています。かといって、なまの言葉ではない事務的な情報発信ではつまらないと考えてしまうところに、私にとっての使い方の難しさがありました(もちろん、上手に使っている方は沢山います)。

もう10年以上前のことになると思いますが、大学生のとき、群馬の実家に帰省したときのある心情をよく覚えています。季節は覚えていませんがもう夜になろうとするときで、時間はそれほど遅くなかったので、だから冬だったのかもしれません。暗い夜道に家々の窓の明かりが灯り、迎えに来てくれた母の車中でそれらを眺めていると、ふと、ああこの家に住む人たちのことは私は知らないし、関係することも今後ないかもしれないけれど、ここにそれぞれの生活があるのだと思ったのです。そんなこと、当たり前のことなのですが、そうして唐突に、私の想像力は自分以外の人の生活に思い至ったのです。夜道の家々の灯りによって。


ツイッターはこの意味で、「自分以外の人もそれぞれの生活があり、人生があり、いろいろなことを考えている」、という「きわめて当たり前のこと」を日々実感させてくれるものだったのですが、それはそれ。それでわかったようになってはいけない。他者に対する想像力を失わないよう、あるいは、損なわないよう、しっかり気をつけていきたいと思います。退会した今は、とても気持ちがいいです。(こういうブログを開設してしまうほどに)

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いろいろなものが「終わる」(あるいは、終わらせる)時期なのか、本日、住まいの給湯器が壊れました。お湯が湧かず、しばらく水風呂確定です。この修行のような事態も、なにか新しいものを手に入れるためのものと信じて…。

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