KOGANEZAWA SATOSHI
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5/1/2020

 
今日は他の先生(三瀬先生)が担当の大学4年生と大学院生のオンラインゼミに参加(時間は別)。新任・初年度のためゼミは持っていない(職位が講師のため、そもそも大学院は担当外)ものの、こうして声をかけていただくのはありがたく、学生たちの事前プランとそれに基づくプレゼンに対して思うことを話す。学生にとっては、作品を見せて話すことができない、というのは非常に難しいことだと思うが、教員にとっても、作品を直に見ないで話さなければならない、というのは、難しいことである。

つまりそこでは情報のやり取りしかできず、体験ができない。芸術は体験であって、その体験に情報は含まれるが、逆ではないということを実感する。少なくとも私はそうだ。

だが今はそれしかできない、という解決のしようのない、行き場のないもどかしさと、どう付き合っていけばいいんだろう。

専任講師として大学に初めて勤務することになって、最近、自分が学生だった頃のことをよく思い出す。大学入学は2002年だからもう18年も前になるが、私は専任のどの先生も知らず、もうひとつ合格した大学と比べ、「なんとなくこっちの方(芸術学科)が面白そう」というだけで入学を決めてしまったので(両親には感謝してもし足りない)、学問としての芸術の素養は皆無だった。「学問としての」と書いてしまったが、地元で美術館に行ったことすらなく、「絵を描くのが好き」くらいのもので(幼少時に絵の教室に通っていた)、だから必修の授業で先生(とびきり怖いと知られる先生だった)が「ランボーが…」と話しはじめたとき、私はフランスの詩人ではなく映画の方を思い浮かべていた。

その先生にかぎらず、どの先生が話すことも、私はほとんど何も知らなかった。一方で、その分野に詳しい同級生というのは当然いて、むしろ彼/彼女たちは、だからこの大学に入学したのだと私に思わせたし、実際そうでもあって、コンプレックスを抱かせたが、私は知らないなりに「入学したのだからこれしかない」と思い込み、結果、「ハマった」のはラッキーだった。

今は人とほとんど情報のやり取りしかできない。けれど、美大は「作品を作る」場所であり、同時に、「作品を作るとはどういうことか」を考える場所だから、その状況だからこそ明確になることも一方であるのかもしれない。「これしかない」と思い込み、「この状況だからできること」をやる。「それまで」を知っているから、単純に切り替えることはできないが、行ったり来たりしながらチューニングする。私もまた、その最中だと感じるし、できるのかどうかも、本当のところではわからない。ただ、どうしようもなく、その状況を突きつけられてしまっているということは、無視できない現実としてある。

などと言いながら、やはり美術館やギャラリーで作品を見る体験に飢えているし、この飢えは、忘れてしまうとまずいのだけれど。

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